私は政治家として、極論は好みません。それは、政治でも、平和学でも同じです。

平和学では、「秩序(法の支配を含む)と正義の矛盾」、という難問が良く議論されます。平和で安定した社会をめざすと、「秩序」が非常に重要であることは論を待ちません。道を歩いていて、突然知らない人に襲われるような国・社会は、平和とは呼べないでしょう。また、犯罪が発生し被害者が出た際に、私的な復讐や仇討ちが横行しないよう、法の支配を確立し、加害者が司法制度の下できちんと裁かれ、罰せられることも重要です。

しかし秩序の維持を重視しすぎると、警察機能を含めた権力の肥大化に繋がり、場合によってはその権力が国民の権利を過度に侵害する事態が生じます。すると、今度は、正義の問題が出てきます。いくら秩序が保たれていても、正義がない国もまた、平和とは呼べません。歴史を紐解けば、「国民の権利を守る」立場から起こされた、正義のための武装蜂起や抵抗運動は数多くあります。反アパルトヘイト運動などは、正義のための闘争として、平和学でも高く評価されています。

日本を含む現代の先進国社会は、この「秩序と正義」のバランスの上に成り立っています。戦前のような秩序維持に偏った強権政治とは、全く時代状況が違います。ですから、今回の特定秘密法の議論で戦前の治安維持法を引き合いに出し、まるで「戦前回帰」するかのような主張は、昨日の読売新聞社説が指摘するように「暴論」であると思います。

今回の法律をめぐる議論には、バランスの取れたアプローチが必要です。国家の機密が漏洩し、悪意のある者や団体あるいは第三国に利用されて、結果として国民生活が破壊され、犠牲者が出てしまえば、「社会秩序を守る」という国家の使命が果たされないことになります。

一方、本来国民が知るべき情報を恣意的に国家機密にして、隠蔽するようなことがあれば、それは、過度の人権侵害であり、正義の問題になってきます。そこで、法律の中に様々なルールを入れ、また運用においても有識者会議など第三者の監視機能を入れていく約束をしました。ここでは、詳細を省きますが、特定秘密制度のスタート時としては、与野党協議なども経て納得の行く仕組み、すなわち、国民の権利を過度に侵害しない条件を整えることができた、と私は判断しています。

政府の取り組みの中身ではなく、「なぜ今なのか?」を繰り返し、批判する人がおります。しかし、問題の本質は、「秩序と正義」という相矛盾しつつ、共に平和にとって大事な価値が、バランスを取れる仕組みになっているかであって、時によって変わるものではありません。「今は不要だ」、「今だから良い」というものではないのです。従って、「なぜ今?」という質問は、本質から外れた問いだ、と言わざるを得ません。

公明党は、臨時国会前にこの法案を慎重に審査し、国民の知る権利等の記述を新たに書き込ませるなど、一定の修正を勝ち取った上で、政府の国会提出を了承しました。与党の一員として、自ら審査し、修正を加えて出したわけですから、国会に賛成の立場で臨むのは、当然であり、そうしなければ政党として無責任極まりないことになります。これは、公明党という政党としての独自判断であり、「自民党の補完」などと言う批判は、政党政治の本質への理解不足から来ているものです。

かつての民主党政権では、政府が提出した法案に与党議員が次々と反旗を翻し、ねじれ国会以上に国政を混乱させ、決められない政治の大きな要因になりました。私もその醜態を三年間つぶさに見て、こんな政治を繰り返せば日本そのものが沈没する、という危機感を持ちました。「決められない政治」からの脱却は、国民の皆様からご支持をいただき、政権復帰した我々の使命であると深く决意しています。

特定秘密法案は成立しましたが、これで全てが終わったわけではありません。政府は今後、この法律に基づいて秘密保護の制度を運用していくことになります。法律の趣旨から逸脱することがないよう、国会がしっかり監視をすることが重要になります。私が理事を務める安保委員会の調査事項には、国家安全保障会議(NSC)も加わりました。委員会の質疑等を通じて、これからも政府の運用を厳しくチェックしていくことに全力を挙げてまいります。